そば文化を“産業”に-日本一のそばの郷づくりへ挑戦 (有)會津きり屋 社長 唐橋宏氏(福島)

近きもの喜べば、遠き者、みな集まり来たる

 福島県山都(やまと)町(現・喜多方市)の「そばによるむらおこし」の取り組みが、第38回中小企業問題全国研究集会(「全研」、3月6~7日、仙台)第12分科会で報告されましたので、概要を紹介します。詳細は、5月発行予定の記録集『中同協』をご覧ください。

そばによるむらおこし

 私がそば屋になったのは1971年、23歳の秋でした。高校卒業後、地元の山都町(現・喜多方市)の農協で営農指導員として3年半勤務しましたが、農協の本来のあり方と現実とのギャップに悩み、農協を辞めました。その後、農家と共存共栄できる仕事はないかと考え、たどり着いたのがそば屋でした。
 当初は、売上がなく、毎日悲惨な日々を過ごしました。というのも、会津では当時、そばは自分が打って食べるものであって、そば屋に行って食べるものではなかったのです。
 何とかそばでやっていけそうになったころ、山都町で、商工会の青年部が中心となって和太鼓のチームができたことをきっかけに、むらおこしに取り組むことになりました。地域に一体何があるだろうかと手探り状態でスタートし、その宝探しの一つが「そば」だったということです。
 そばには、地域で昔から栽培し、粉にし、食べている「文化」が根強くあり、それを磨くことで、地域の産業にまで発展できるのではないかと思ったのです。農家、特に中山間地の農家は現金収入が少ないので、何とか現金収入を得て、温泉に行ったり、自分たちの生活を楽しむことができないかと考え、山都町の仲間とスタートさせました。

山都そばのブランドづくりと「そば大学」

 まず、「新そばまつり」を小学校の体育館を借りて開催しました。ところが二度ほどやって分かったのは、もっとそばの専門知識を皆で共有しないといけないということでした。
 そこで、「山都そば大学」を始めました。3年間、冬の暇な時に1泊2日で超一流の講師陣を全国から招いてやりました。それが後に、みんなが同じ高度な専門知識を共有できたということで、弾みがついたのではないかと思います。
 そのうち、町も動きだし、山都に「そばの里センター」という資料館と、そばを食べさせ、そば打ち体験もできる「そばの伝承館」、玄そばの乾燥から調整、製粉までできる施設、後に冬の雪を利用した雪室による低温貯蔵施設をどんどん作っていきました。
 みんなが燃えに燃えてやったために、いろんなアイデアが出てきました。夏の暑いとき、そばを常温で保存してはダメだろうと、振興公社で保管し、希望がある人には製粉したものを配るという日本で初めての「そば銀行」を作りました。
 冬は雪におおわれ、暇なわけですが、そのなかで、「寒晒しそばまつり」も始めました。寒晒しそばとは、寒中に川に入り、そばの実をネットに入れて一週間浸し、それを寒風にさらして乾燥させて作るもので、甘味が強い一味違うそばになります。信州伊那の高遠から徳川秀忠の息子の保科正之という殿様が会津に移封された時に、そのやり方を伝えたといわれる寒晒し技法を再現したわけです。
 94年にそばの里センターができた時は、こけら落とし事業として、「第一回日本新そばまつり」を実施しました。
 これは、前年に発足した全麺協(全国麺類文化地域間交流推進協議会)という、そばの村おこしの全国ネットワークの記念イベントでもあったわけですが、山都で11日間そばまつりを行い、全国各地から多くの出店をいただきました。「居ながらにして全国のそばを味わえる」がキャッチフレーズで、全国から7万人が押し寄せて、山都の町中が交通渋滞で車が動けなかったほどでした。
 全麺協では、それぞれの地域が持っている力を引き出そう、よそものの目で見た宝探しが大事だと、日本初の「全国そばサミット」も同時開催しました。
 その後、生粉打ちの名人大会や、素人のそば打ち認定大会を開いたり、次の世代の人たちの勉強の場をつくろうということで、そば大学を開催しています。昨年は全麺協の日本そば大学も喜多方市で3日間開催して、180人くらい集まっています。

予約制の農家そば屋

 予約制の農家そば屋は、私の生まれ里、山都町宮古地区で73年に私が父をたきつけてスタートしました。最初は3軒が名乗りをあげたのですが、それでは人が呼べないから村中でやろう、とみんなに呼びかけました。すると34戸の集落で13戸がそば屋を始めました。そこに年間7~8万人の客が押し寄せてきたわけです。これには土地の人もビックリしました。
 むらおこしを始める前は、山都町にそば屋は1軒もなかったのですが、今は28軒。28軒で15億円くらい売り上げているのではないでしょうか。
 父も今年85歳ですが、まだ現役でそば屋をやっています。お客さんの顔を見ること、現金が入ることが元気の素なんですね。
 村の13戸がそば屋をやっていますが、忙しいときは隣近所のばあちゃんたちがみんな手伝いに来るんです。じいちゃんが山に行って山菜を採ったりしてきますと、それも金になる。80歳を超えるばあちゃんが、お茶菓子付き、お昼付き、時給千円で働いています。村全体が潤うわけです。

「会津そばトピア会議」の活動

 山都町の名前が知れわたるにつれ、そばによるむらおこしが会津のあちこちの市町村で始まりました。そこで、何とか行政の垣根を取り払って、一つになってやろうと呼びかけ、91年に「会津そばトピア会議」を立ち上げました。
 ここでも山都町のむらおこしの手法にならい、「会津そばトピア塾」を年に4回くらい開催し、そばの栽培から加工技術の話、それをどう売るかという勉強会、また会津のそばをどう世に知らしめるかという広報、イベントなど、みんなで額を付き寄せながら勉強しました。酒を飲みつつ、夢を語りながら、やってきました。それが会津を一つにする大きな要因になったのではないかと考えています。
 そのなかで、そばの生産の向上を図るため、栽培の機械化をしようと、中山間地の小さい耕作面積でも使える小型のコンバインを開発。そこに国や県の補助金をつけてもらったところ、一気に会津中にコンバインが入りました。栽培面積も10年間で3倍になり、北海道につぐ2番目の作付面積を誇っています。
 会津に固有の品種を作ろうと県に働きかけた結果、2007年4月に「会津のかおり」という品種が誕生しました。このそばを広めるために、会津だけでなく全県的なネットワークを作ろうと、会津そばトピア会議が中心となって、「うつくしま蕎麦王国協議会」を立ち上げました。新しい品種は、この協議会が全部管理することを、県と折衝中です。

地域の宝さがし

 赤石前会長が、地域力経営という話をされましたが、私も同感です。地域の資源をその土地の人はなかなか見出せないものです。その意味で、よそ者の目を借りることが地域の宝探しでは大事なんだと思います。そのためには同友会のようなネットワークが必要だと考えています。
 宝石をどう磨くかということも大切な課題です。それにはやはり、大所高所からものを見ることができるスペシャリストを交えて、みんなで夢を作り上げることが大事です。
 次に、地域に根ざしたものをきちんと形にしていくこと。先人が培ってきた文化や風習、その地域の自然景観、土壌などを借りながら、施設のデザインやシンボルマークを作ることで、みんなの考え方が一つになっていきます。期限をきちんと作った計画作りも大事だと思います。

自ら光る企業をめざす

 何かやろうとするとき大事なのは、やはり「人」です。私はカリスマ的なリーダーがどうしても一人必要だと思います。とにかくそれに夢中になれる人が一人いて、あとは、7人の侍を従えれば鬼に金棒です。
 地域づくりの原点は、「近きもの喜べば、遠き者、みな集まり来たる」(孔子)。独創的な発想で楽しくやっているところに人は吸い寄せられます。「観光」というのは「光を観る」と書きます。光っていないところに人は集まりません。皆さんがひと工夫もふた工夫もされて、光る企業、光る店になれば、どんな時代でも繁盛していくだろうと思います。
 いま、原材料がどんどん値上がりして、外食産業では利益が完全に消えていく大変な時代ですが、でも、何か活路はあると思っています。それは、大所高所から見る眼とヒューマンネットワークではないかな、そんなことを考えて毎日そば屋をやっています。

会社概要

設立 1971年
資本金 1000万円
年商 1億1000万円
社員数 16名(内パート・アルバイト8名)
業種 飲食業
所在地 会津若松市上町
TEL 0242-25-3851
http://www.kiriyasoba.co.jp/

「中小企業家しんぶん」 2008年 4月 25日号より