【黒瀬直宏が迫る 戦後中小企業史】第11回 長期停滞期(1991年~)の中小企業問題(1) NPO法人アジア中小企業協力機構 理事長 黒瀬 直宏

 「戦後中小企業史」をテーマにした黒瀬直宏氏(嘉悦大学元教授)の連載。第11回は、長期停滞期(1991年~)の中小企業問題(1)です。

 1990年代に入り、60年代半ばに完成した「戦後大企業体制」の2本の柱が崩壊し、長期経済停滞を引き起こしました。

国際競争力の衰退

 まず、先進国一を誇っていた国際競争力(第1の柱)が衰退しました。その理由は、重化学工業の中核である大量生産型機械工業の製品開発と設計・加工技術における優位性の喪失です。80年代末になると、70年代中ごろ以降の輸出競争力の源であったME技術革新の種が尽きる一方、アメリカが90年代半ばからパソコン、インターネット関連機器などIT分野での製品開発をリードし、日本は立ち遅れました。また、IT革新は経験の少ない技術者にも設計を容易にし、不熟練工による高度の加工も可能にし、中国など東アジアの設計・加工技術を高める一方、熟練技術者の設計能力と熟練工の加工能力を源泉とする日本の生産上の優位性を削ぎました。

 国際競争力は急激な円高によっても低下しました。円の年間平均レートは1991年1ドル=135円だったのが95年には94円になりました。プラザ合意後の円高の円安への転換と内需の停滞などによる貿易収支黒字の急増が、「異常円高」の背景です。技術革新に行き詰まった日本は、かつてのように円高を突破する力がなく、日本の強みである乗用車の生産も大きく落ち込みました。自動車を中心とする機械工業は依然輸出依存体質を保持していますが、技術革新に根ざした輸出拡大の力を失い、為替相場や海外需要の動きに左右される受身的輸出に変わりました。

国内完結型生産体制の崩壊(生産の東アジア化)

 「戦後大企業体制」の第2の柱、国内完結型生産体制が輸出部門の設備投資を他部門に波及させる仕組みも崩壊しました。電機大手完成品メーカーは1980年代後半から東アジアに組立工程を進出させていましたが、92年の円高以降、部品工程を含む本格的な生産拠点を中国に構築し、低付加価値製品だけでなく高付加価値製品も生産、さらに部品メーカー、中小加工企業も進出しました。自動車メーカーも90年代にタイへの進出を活発化し、日本におけるような重層的な下請分業組織を構築しました。中国には大手部品企業を先行進出させ、90年代末以降最新鋭の完成車工場を建設し始めました。中国などでの生産拡大は当初は低賃金利用が主目的でしたが、2000年代には所得上昇で拡大する現地市場の獲得も目的とし、円安局面でも現地生産比率は上昇を続け、国内生産拠点は東アジアでの一生産拠点化しました。さらに、ITにより設計・加工技術を急速に高めた中国企業と中国生産拠点からの輸入が増加し、東アジアベースでの分業関係も形成され、日本の国内完結型生産体制は東アジアベース生産体制へ歴史的転換を遂げました(「生産の東アジア化」)。

「受身的輸出・コストカット依存」へ、長期停滞に突入

 「生産の東アジア化」の結果、第1に、国際競争力の低下した国内大量生産型機械工業の輸出依存は変わっていないため、生産拡大を他国の経済拡大や円安による受身的な輸出拡大に頼らざるを得なくなりました。第2に、生産増を見込めないため、設備投資は避けられ、利益の創出を労働コスト削減(雇用削減と非正規化による賃金削減)や外注コスト切り下げに依存することになりました。こうして経済拡大の仕組みは「輸出・設備投資依存」から「受身的輸出・コストカット依存」に転換しました。

 これが経済の停滞を引き起こしました。受身的な輸出依存が生産を停滞させ、設備投資・労働コスト削減も投資・消費需要減退を通じ生産を停滞させたからです。また、設備投資削減は国際競争力の回復を妨げ、輸出停滞とコストカット依存を強めるという悪循環を起こした結果、経済停滞は30年続くものとなっています。1991~2019年の年平均実質GDP成長率は1・0%、この間に6回のマイナス成長を記録しました。日本のコロナ大不況からの回復が遅いのも、このような停滞基調が経済を支配しているからです。

「中小企業家しんぶん」 2022年 5月 5日号より