講演録

中小企業基本法・中小企業憲章と新しい中小企業運動

1.中小企業基本法の意義と課題

中小企業にも基本法をと議論沸騰したが

 中小企業基本法はご存じのように、1999年に抜本的に改正されました。この抜本改正の中身は、1963年の中小企業基本法の成り立ちと内容を理解することなしには正しく理解できないと私は考えています。

 1963年に制定された中小企業基本法の成り立ちの過程を見ますと、最初に基本法制定を言い出したのは中政連(中小企業政治連盟)で、1960年のことでした。当時の中政連の主張は、業界がすべてを仕切るという経済統制的、団体統制的な考え方で、自由経済とは逆の発想でした。同友会運動ともまったく反対の考え方です(詳しくは『中同協30年史』を参照)。そのころ、中政連は中小企業運動の主流でしたが、力が衰えてきたために起死回生をはかるためにも基本法制定を言い出したようです。

 基本法制定に向けて具体的に動き出したのが、1961年に池田勇人首相が本格的な検討、立案を指示してからです。その動機は、前年にできた農業基本法を受けて、中小企業でも基本法が必要だということでした。これで、中小企業にも政策の目が向いて、農業並みに基本法ができるということで、中小企業団体は大いに発奮します。

 当時、基本法制定に対して、中小企業側にどのような期待があったか。第1には、下請法を実効あるものにし、下請関係を改善すること。第2に、後に法律になりますが、大企業の中小企業分野への参入の調整が要求されていました。第3には、官公需の中小企業への発注割合の確保。第4に、金融機関の中小企業に対する融資を義務づけるという要求もありました。第5には、零細企業・商業対策です。

 池田首相が中小企業基本法を作るといった途端、右のような要求・要望が一斉に出てきて、関係者を驚かせました。その後は、議論を沸騰させないように抑えにかかるなど、政府には躊躇があった挙句、1963年に中小企業基本法が成立しました。

大企業の輸出振興策とセットで提出された基本法

 その主たる内容は、(1)中小企業の国民経済における役割の強調、(2)経営の近代化、(3)生産性の格差の是正、などです。

 実は、基本法制定に先立つ1961年の夏に当時の佐藤栄作通産大臣(後の首相)が、「輸出振興基本法案」を次期国会に提出することを発表します。当時の日本の産業政策の最大の課題は輸出振興であり、しかも、昭和20〜30年代にかけては、繊維や雑貨などの中小企業が輸出を担っていました。くしくも基本法ができた昭和38年(1963年)に初めて中小企業の輸出額が全輸出額の50%を割り、大企業と逆転しました。つまり、輸出の主役を大企業として、その国際競争力を高めるという通産政策が中心になってきます。

 このような背景のもとで政府は、先の「輸出振興基本法案」の名前を変えて特振法(特定産業振興臨時措置法)と中小企業基本法案とを一緒に提出し、両法案の関係の議論をきちんとさせ、同時に成立させるという政府のスタンスが決まりました。私は、この特振法と基本法の関係が中小企業基本法の本質を示していると理解しています。

大企業育成と中小企業格差是正の関係

 当時、この関係がどう理解されていたか。当時の国会で、特振法は大企業育成で中小企業との格差を拡大するのに、中小企業基本法は中小企業育成で格差を縮小しようとするものなので両者は矛盾しないかという質問に対して、福田赳夫通産大臣(後の首相)は、「産業界は横割りと縦割りに見ることができ、特振法は縦割りの見方から、中小企業基本法は横割りの下の部分を育成するもので、今国会に中小企業基本法と特振法を同時に提出することは矛盾しない」と答弁しています。これは、縦割りにしたものの、下の方である中小企業を底上げするという位置づけです。

 当時の高度成長期の日本は、重化学工業を発展させるというのが国是。「重」は金属・機械工業が中心であり、「化学」は石油化学が中心ですが、それぞれの重化学工業化のリーダーとしての大企業があり、その下請制などでつながった中小企業を育てることが、それぞれの成長させるべき産業を発展させるという考え方でした。したがって、制定された中小企業基本法が、単に中小企業を保護することを政策目標としたということではないのです。

 前述した基本法の主な内容に、「(1)中小企業の国民経済における役割の強調」とあるのは、重化学工業化を通じた日本経済の発展で、下請けでイメージされる当時の中小企業が大企業の発展に追いつくようにするのが中小企業政策、国の政策の役割であるというのが、この「役割」の意味でした。そのためには、設備や経営のやり方が前近代的であった当時の中小企業の一切の近代化が「(2)経営の近代化」という言葉に代表される内容になりました。そして、そのことが大企業と中小企業の「(3)生産性の格差の是正」につながることになるとしているのです。要するに、そういう近代化の過程で大企業に従い発展するのが中小企業の発展の道だというのが、当時の中小企業政策の理解であったわけです。

当初から「自主的近代化」掲げた同友会

 同友会運動は、このような近代化の理解に対して、「3つの目的」の中にある「自主的近代化」という表現を使って、あるべき中小企業の発展の道を提起しています。

 私は、同友会がこの言葉を使ったことの意味を初めて知ったとき、少なからず驚きました。同友会の先輩たちが、大企業の敷いた範囲の中での近代化でなく、近代化を自分たちの判断で自主的にやりたいと宣言した意義ある文言であったわけです。

 ただ、自主的近代化の考え方は中小企業の多数派ではなく、大多数の中小企業は大企業のもとでの発展を望み、政策もそれを後押ししました。

日本経済・産業の動揺と中小企業基本法改正

 中小企業基本法制定以後、中小企業近代化路線の政策はずっと続きました。そして、1990年代に入り、日本の経済・産業の仕組みが大きく動揺します。同友会がいうところの「激変消滅」の時代となり、大企業と中小企業とのある種の「共同的」な仕組みが壊れる中で、中小企業基本法の基本的な考え方も動揺します。その考え方の現実的根拠が失われていくことになりました。したがって、中小企業基本法を変えなければいけないという認識が生まれます。同時に、大企業はアメリカ式の「選択と集中」で仕組みを変えていきました。

 1992年、中小企業政策審議会に基本施策検討小委員会が設けられ、「中小企業政策の抜本的な見直し」が検討し始められました。しかし、このときの議論はすぐ潰れてしまいます。なぜ潰れたのか。それは、大企業と中小企業の一体化した仕組みを前提として中小企業の立場を強化しようという考え方でしたが、仕組みそのものが壊れてしまったのですから、この時点の見直し議論は挫折してしまったのです。

 その後、改めて改正議論が生まれたのは1998年ですが、この時の背後には同時期の金融システム危機があります。そして、バタバタっと1999年の中小企業基本法改正まで行ってしまうのですが、この99年の8月に、「産業活力再生特別措置法(以下、産業再生法)」が成立していることが注目されなければなりません。これは、金融再生法に対応する産業分野での法律です。この8月に小渕恵3首相は、「先の国会では産業再生法関連法案などを通したが、中小企業問題が残っている」と発言し、その年の秋は「中小企業国会」とするという流れになったわけです。

 こうして決まった政策方向は、まず大企業は産業再生法でやる。アメリカ式の「選択と集中」で合併・分割を進めるわけですが、そのための商法改正等も次々と進めました。「選択と集中」とは事業再構築(リストラクチャリング)の具体的方針ですが、採算部門に経営資源を集中し、不採算部門は分割して新会社にする、あるいは他社の不採算部門と併せて再生させる、そのための大胆な情報化投資とアウトソーシングを進める、といった90年代のアメリカの産業政策に学んだ日本政府の方針です。これが、産業再生法として推進され、2003年にはさらに改正されて、大企業支援策が強化されます。

 つまり、大企業の「選択と集中」の結果、生み出されてくる大量の失業とアウトソーシングの受け皿として中小企業の役割を求めるという方向が、小渕首相の「中小企業問題が残っている」という発言につながると理解されます。そして、小渕首相の指示から半年も経たないうちに、中小企業基本法は矢のようなスピードで改正されました。

大企業の産業発展を中心においた中小企業政策

 私は、以上のように中小企業基本法の制定と改正の過程を見たわけですが、私はこれを図のようにまとめることができると考えています。つまり、中小企業の要望・要求を実現するために中小企業基本法が制定され、また、改正された形を取りますが、現実は、大企業の方針や支援策が決まってから、大企業の産業発展を中心において、その範囲の中で中小企業基本法の制定・改正や中小企業政策の実施が追求されたということです。

 実は少しややこしいのですが、63年の中小企業基本法制定時に特振法案は成立しませんでした。なぜかというと、図にある「新産業秩序・官民協調」という法案の理念を大企業が行政府にコントロールされるということで拒否したという背景があります。「…秩序」という言い方は、戦時下の用語で、統制経済を思い出させる言葉だったのですね。「官民協調」もその文脈で考えられて、それを建前に大企業は反対しました。大企業はもともと国家の介入が好きではありませんし、自分で業界を仕切れる力がありますから、国から余計なことを言われたくないという意向をもっています。そこで、「新産業秩序・官民協調」というやり方に反対して特振法案はつぶれてしまいました。

 特振法の挫折は、むしろ、輸出振興を通じて大企業を支援するという日本的産業政策が始まる、あるいは定着するきっかけとなりました。この日本的産業政策は後年の貿易摩擦において、日本への批判・非難の根拠になっていくという歴史があります。

 一方、中小企業基本法が成立したのは、中小企業の中で同法に対する期待感が全般的に大きかったということがあります。また、中小企業の方は、国が中小企業をコントロールするということに、先に述べた中政連の影響もあって、中小企業者もあまり気にしなかったという側面もあります。いずれにしろ中小企業基本法の中身としては、特振法を支え、マッチする形で成立したものです。

 1999年になって産業再生法が先に見たような事情で制定され、それに合わせて中小企業基本法も改正され、雇用の担い手・アウトソーシングの担い手としての中小企業の「創業・経営革新」を基軸に中小企業基本法が改正されていくという流れです。

改正前後での「基本法」比較

 中小企業基本法の政策体系を簡単に改正前と改正後とを比較すると次のようになります。

 改正前は第1には、「中小企業構造高度化」という課題です。「中小企業構造」とは、当時は大企業と中小企業の二重構造と言われていたことです。二重構造という言葉は、上と下という意味で法律用語としては使いにくいということで、便宜的に「中小企業構造」という言葉を使いました。そして「高度化」とは、たとえば製造業では大企業が設備を近代化すれば中小企業も一体的に近代化するという関係を高度化と呼んだわけです。

 第2には、「事業活動の不利補正」です。先のような関係、下請取引などの中で中小企業が不利なことがあれば是正しようということです。「補正」という言葉も意味深長な行政用語です。「是正」は悪い点を改めただすことですが、「補正」は正しいことを補いただすという意味ですから、悪いと言っているわけではないのですね。

 第3には、このような仕組みと距離がある、仕組みに入れない小規模企業も政策対象としていました。

 これが改正後は、90年代に「中小企業構造」が揺らいでしまったのですから、従来通りの「高度化」路線は維持できません。

中小企業施策体系
改正前 改正後
(1)中小企業構造高度化等 (1)経営革新・創業促進
(2)事業活動の不利補正 (2)経営基盤の強化
(3)小規模企業 (3)経済的社会的環境の変化への適応の円滑化

 その中での中小企業の新しい役割は、先に見たように事業再構築の結果としてのアウトソーシングの事業引き受けや雇用の受け皿という位置づけですから、そのための「経営革新・創業促進」が改正基本法の第1の課題になります。

 第2には「経営基盤の強化」。改正後は、企業規模の差は不利をもたらさないというやや特異な考え方が強調され、「不利補正」という言葉が消え、企業経営一般の基盤の強化という表現になります。

 第3には、小規模企業対策のように規模や対象を制限しないで、「経済的社会的環境の変化への適応の円滑化」という、実にお役人用語的な表現に改められます。この段階で小規模企業なるがゆえに政策の対象となるという考え方は放棄されています。

改正「基本法」の課題

 それでは、改正中小企業基本法の問題点、課題は何か。

 第1には、改正前の基本法も同じですが、中小企業の現状認識から政策が組み立てられていないということです。これまで見たように、もっぱら中小企業に対し、政府・大企業から要請される役割から出発しており、中小企業を励ますものとなっていないと評価せざるを得ません。事実、「中小企業はこうやりなさい」などという言い方・発想が目立ちます。中小企業の役割というものは、中小企業自身の自覚と決意から発せられるべきものだと私は思います。先に述べた、自主的近代化を促進するような政策が本当の中小企業政策です。

 第2の問題点、課題は、中小企業基本法を読めばわかるように、中小企業にとって大切な税制や教育、環境問題、国際交流などが触れられておらず、中小企業政策が狭い範囲で考えられていることです。つまり、中小企業にとって必要とされている政策は多様であり、網羅的であるにもかかわらず、限られた範囲の施策にとどまっています。したがって、中小企業の希望や要望を踏まえて中小企業基本法や中小企業政策が考えられるべきだと思います。

 ただし、それへの国民的な理解が大切です。これまでの中小企業運動は国民的理解の追求が弱かったと思います。ここが、中小企業憲章制定運動を進めるうえでの大きなポイントになると考えます。

(つづく)

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