【寄稿】渋沢栄一没後80年~その実践に学ぶ~

中同協相談役幹事 赤石義博

 日本の近代経済社会の基礎を築く上で、大きな役割を果たした渋沢栄一氏(1840~1931年)が亡くなってから、今年で80年。没後80年にあたり、氏から学ぶべき点などについて赤石義博中同協相談役幹事に寄稿していただきました。

 近年、渋沢栄一に関する著作が多くなっている様に思う。また、その誘発原因の1つが渋沢著作「論語と算盤」にあるのではないかと推察している。

 そう考える理由の1つは近年目に余る倫理観なき経営の横行に対し、渋沢理念を対置することで、人間が本来持っている筈の正義感の覚醒を密かに期待していると思われるもの。

 また、発想の起点は似たようなことだろうが、そういう世の風潮を憂うる者の多数存在することを推測し、共感を得るためのアピール。はたまた、そういう時代観に便乗して売らんかなの著作と感じられるものもある。

 しかし、それら著作の大部分はいわゆる「修己治人(しゅうこちじん)」を目指す範囲を超えていない。つまり渋沢栄一の本意に達していない著作が多いということである。

 勿論、取り敢えず自分自身の論語的修養、修己治人を目指すことも立派と言えることではあるが、渋沢栄一が目指したのは論語の社会的実践であり、特に注目すべき点は「経世済民」(著作では「博施濟衆」を多用している)思想の実践である。

 経国濟民、経世済民、博施濟衆。ここでは紙面の都合上それぞれの意味の解説は省略させていただくが、大筋の意味は、いずれも「民のくらしの繁栄に第一義をおいた経済のあり方を含めた政治」といって良い。

 「論語を活かす」という著作の中で渋沢栄一は、そうした生きざまを決意したことについて大要以下の様に述べている。

 「明治6年官を辞して実業界に入ることになった時、志しを如何に持つべきかについて考え、以前に習った『論語』のことを思い出した。論語は最も欠点の少ない教訓であり、論語の教訓に従って商売できると悟った」と言っている。

 このあとの文章が痛烈だがいかに実践を重んじていたかが判(わか)るので紹介しておこう。「世の漢学者が口を開けば仁義を唱え忠孝を説いているが、これは紙上の文字論、実際に体現しなければなんの益にもならない。儒者の説くところは、あたかも坊主がいたずらに衆生済度を説き、少しもこれを濟度する方法を実現しないのと同じである」。そこで自分は「『論語』を商業に応用し、仁義を日用事の上に適用して一生を終始しようと決心した」と述べている。渋沢33歳の時である。

 それから1931年91歳で亡くなる迄の60年近い歳月、「経世済民」思想の実践で貫き通したのである。

 「一家の富を計るは覇道であり、公利公益のために業を為すを王道という」と言い、他の財閥を形成した諸家とは異なり、みずから現在につながる500余の会社を興し、また600前後の病院・慈善団体や学校・商業団体を立ち上げながら、オーナー企業を一切持たなかった。日本の近代化に必要な産業起こしに奔走し、時には新事業設立のために、先行し軌道に乗った企業の株式を売却して投資するなどの記録も見られる。

 渋沢にとっての企業起こしは、日本の近代化と国民の暮らしを豊かにするための産業づくりであって、自分の家産を殖やすためではなかった。文字通り「経世済民」思想を貫き通したと言える。

 封建時代の幕を閉じ、白紙の状態から機械工業や諸産業、鉄道などを立ち上げ、いわば一挙に近代化をすすめなければならなかったあの時代に、最も必要とされる人材が存在したと感謝と深い畏敬の念を持つものである。

 最後に「渋沢栄一の経世済民思想」(坂本慎一著、日本経済評論社、2002年刊)という研究書を紹介して筆を置く。

「中小企業家しんぶん」 2011年 12月 15日号より