【特集 第37回中小企業問題全国研究集会】地域とともに中小企業が時代をリード

地域貢献は足元の見直しから

 2月8~9日、第37回中小企業問題全国研究集会(略称・全研、中同協主催)が、沖縄で開かれ、全国47同友会から1468名が参加しました。「中小企業の元気が地域をつくり、日本を変える」をメインテーマに、1日目は18の分科会、2日目は対談と地元の小・中・高校生による現代版組踊が行われました。3つの分科会の参加者の感想、対談要旨、初めて行われた都道府県対抗ゴルフ大会などを紹介します。

【参加者の感想】第1分科会 ・ 第13分科会 ・ 第18分科会
【知事のあいさつ】
初の都道府県対抗ゴルフ大会
【対談】人づくりの種をまく

【参加者の感想】


<第1分科会>地域経営は重要な課題~中小企業は地域に根づき、移動できない植物

 報告者の下平尾勲氏(福島学院大学教授、ふくしまふれあいカレッジ学長)は、冒頭に、地域経営の視点からがんばっている地域を見ると、4つの“ション”があると紹介。それは、「ビジョン(構想と着眼点)」「パッション(情熱)」「デシジョン(合意形成・決断)」「アクション(結果を見て行動する・知恵と結びつける)」。

 たとえば、商店街衰退問題では、商店街で買い物するよう消費者の心をつかむために知恵を出し、それも単に商業だけでなく、まちづくりと関連づけないとだめ。うまく地域再生しているところでは、正しい着眼点を持って、情熱を持った人が集まり、合意形成をし、知恵を出し合しあい行動することが共通項として見られるそうです。

 その上で「中小企業は植物。その地域に根をはり、その地域から養分をもらって成長する」と指摘。大手は、えさがなくなるとどこかへ行ってしまう動物と同じだが、中小企業は、根を下ろしている地域を動くことはできない植物。だからこそ、地域の中で養分を作らないと中小企業も衰退してしまう。

 この中小企業と地域の関係を理解することで、分科会では、これからの地域経営が中小企業にとっても非常に重要な課題であることが再認識されました。

 また、下平尾氏は、「これからの時代は、これまでのタテの連携からヨコの連携が求められ、同友会の良さはあらゆる分野の経営者がヨコの連携をし、学習するところがすばらしい」と評価されました。さらに、「47都道府県に同友会があるのだから、もっと地域の中での存在感を示す必要がある」との指摘もありました。

 現在、取り組んでいる中小企業憲章や中小企業振興基本条例の地域社会にとっての意味(中小企業振興が地域経済・社会と密接な関係にあり、人々のくらしを守り育むものであること)、中小企業家の地域において果たすべき役割が、明確になった分科会でした。

広島同友会事務局 青芝 寿枝


<第13分科会>誇りを持って「中小企業憲章」制定の推進者に

 13分科会には、27同友会から73名が出席。また、女性会員も数多く参加され、新鮮な雰囲気の中、熱い討論を繰り広げました。

 報告者である赤石義博・中同協会長は「同友会の50年は、理念の実践的深化による発展的・創造的な歴史」とし、同友会がなぜ中小企業憲章制定をめざしているのかという熱のこもった話をし、大変深い感銘を受けるものでした。

 特に、設立当初の同友会運動は、中小企業の不利是正を求める業者運動であり、その後の実践の中で、国民の暮らしの向上安定と中小企業・自営業の繁栄安定は表裏一体との認識が生まれ、「業者運動から国民運動」へと昇華してきたこと。今、地域や社会、地球環境の崩壊という実態の中で、地域のくらしをつなぎ、地域の活力を生む中小企業の仕事づくりを確かにするために、憲章制定の必要性が時代の要請となっていることに強い確信を持ちました。

 グループ討論では、北海道、富山、広島を始め、各地の経営環境や自社の方向性、望ましい経営環境など、事前提出レポートに基づいて討論されました。いずれも、地域の衰退や中国製品流入問題など深刻な状況が報告されました。

 討論の中心は、「地域や自社の環境を徹底して見直してみる」ということでした。東京への一極集中と地方経済の衰退という構図の中で、自社の活性化にとって何が問題なのか。自社の前進を阻害するものをどうすれば乗り越えられるのか。どういう条件があればより望ましい環境を実現できるか議論しました。そして、自社の発展を確かにする具体的条件や改善方向・方法を示すのが「憲章」制定につながるんだという結論に至り、一同大変元気になることができました。

 討論発表でも、「中小企業として誇りを持ってこの課題に取り組もう」「本日より憲章の熱烈な推進者となります」という宣言も飛び出すなど、報告と討論を経ての勇気と確信に満ちた内容が報告されました。

 分科会は、杉村座長が「憲章運動の分岐点」と表現したように、3年間の学習運動を経て、次のステップに向かっての力強い歩みを決意するものとなりました。

 なお、赤石会長の新著『幸せの見える社会づくり』は、憲章制定への思いの集大成ともいうべき力作です。ぜひ、お読みいただくことをおすすめします。

東京同友会事務局長 松林 信介


<第18分科会>「御菓子御殿」づくりへの挑戦~地元産「紅芋」にこだわった商品開発

 読谷の町を出外れると、そこはサトウキビ畑と雑草地が海まで続く1本道であった。こんな町外れに「お菓子のポルシェ」御菓子御殿があるのだろうか。突然、琉球紅の御菓子御殿が現われた。見れば真前は残波ロイヤルホテル。そこで初めてここが戦時中の沖縄最激戦残波岬の地であることに気づいた。

 1945年4月1日、米軍は沖縄上陸の目的地として、この岬を攻撃した。追い詰められた軍人や女子どもは、生きて辱めを受けじと、崖の高さ30メートル幅2キロメートルに及ぶこの崖から次々と投身したのである。今はその面影も無い平和な観光地となっているのだ。

 私たちは、報告者の澤岻カズ子社長(沖縄同友会会員)以下社員の皆さんに、紅芋色に琉球紅型模様の制服で出迎えていただいた。そのにこやかな温かさが胸を打つ。

 社長ご夫妻は、沖縄本土復帰前、夫25歳、妻21歳でトヨクニ商事という照明機器販売店を創業された。とても繁盛していたが、本土復帰後の税制等を考えてこの商売をやめ、2億円の借金で4店舗のレストランを開業した。ちょっとしたつまづきから、これらのレストランを全部売却。それでも返済しきれない借金を抱えて、ドーナツ、チョコレート、アップルパイの3品を売る20坪の売店を作った。

 「どうせやるなら、明るく、楽しくやろう」と腹をくくった社長は、38歳、8000万の借入れで自社工場を作り、1986年、「1村1品 村おこし」を提唱する大分平松知事に呼応し、280坪の土地を入手して村ぐるみの地産地消の取組みが始まったのである。4人の子育てと借金を抱え、「借金は私が返済するから」と、夫とは別の仕事として「特産の紅芋」を使ったお菓子を営業された。

 地元「読谷村」へのこだわりと13億円もの巨費を投じたご主人と社長の思い入れの御菓子御殿は、社長の先見の明通り、観光客7割地元の顧客3割で、繁盛の一途を辿(たど)っている。あと5年もすれば、借入金も無くなる予定だと聞く。

 成功した女性にいつも聞かれる質問であるが、「家庭はどうしたの、家事はどうしたの」。これは愚問ではないだろうか。成功した男性にはこんな質問はない。成功する女性は努力と信念が特別なのだ。決して幸運だけではないのである。澤岻カズ子社長の人間としての信念に感銘を受け、勇気をいただいた見学分科会であった。

福井同友会副代表理事 奥村 繁子


【知事のあいさつ】経済の自立なくして沖縄の真の自立なし―沖縄県知事 仲井眞 弘多氏

 全国からようこそ沖縄においでいただきました。

 私も4、5カ月前までは沖縄県の商工会議所連合会の会長とか、経済団体会議のまとめ役などをやっておりました。昨年11月の知事選で当選し、ちょうど2カ月になっております。

 私が選挙の公約で強調したのは、沖縄の中で企業を興し、事業を起こし、そして雇用を増やすことです。沖縄の失業率は全国平均の倍くらいあり、これをせめて全国平均までもっていくことが公約です。

 沖縄は、アメリカの施政権下から日本に復帰して34年になります。おかげで見違えるようにしていただきました。道路、空港、港湾、学校、住宅いろんな面で立派になり、そして観光リゾート産業のようにお国に頼らない、産業が大きくなって参りました。まだ勢いがございます。情報通信関連産業も県内外の企業の立地がこの5、6年で進みました。

 沖縄の出生率、人口はまだ伸びております。約1万人弱毎年伸び、3割くらいが沖縄への移住者というような状況でございます。

 沖縄はこれまでも文化・芸能というのは高い水準であって、独特のものを持っております。何とか経済もしっかりしたものに仕上げていきたい。経済の自立なくして沖縄の真の自立なしということで、私も政策の運営に当たっております。

 私も支援する側ではありますけれども、ベンチャー精神、企業家精神、イノベーション精神とグローバルスタンダード、この4つをキーワードに、沖縄における課題は企業を生み出すこと、雇用を生み出すこと、ということでやって参りたいと考えております。どうかお知恵を貸してください。

 沖縄をエンジョイしてください。ありがとうございました。


初の都道府県対抗ゴルフ大会

 第37回沖縄全研の前日、2月7日に琉球ゴルフ倶楽部で開催された都道府県対抗ゴルフ大会は、受付を新垣勲副代表理事が担当し、47都道府県のうち、15県よりエントリーがあり、89名が参加しました。

 朝7時より、沖縄同友会の新城博実行委員長の始球式のあと、第1組がまだ薄暗い中、スタートしました。日中は晴天に恵まれ、絶好のゴルフ日和となりました。

 個人戦は、ダブルぺリア方式でおこなわれ、沖縄同友会の塩谷篤氏(石垣島ビール(株)専務)が優勝し、当日表彰されました。一方、上位3名のグロスの合計で競った団体戦では愛知同友会のチームが優勝しました。この表彰は、翌日の全研の懇親会の中で沖縄同友会の石川元章相談役(ゴルフ大会実行委員長)が表彰式を進行し、大きなシーサーの陶器に入った泡盛が賞品としてプレゼントされました。

 プレー終了後の懇親会では、用意された各賞が発表され、さまざまな商品を手に、和やかに各地の同友が懇親を深めました。


【対談】平田大一氏&照屋義実氏 人づくりの種をまく~地域の生命(いのち)を育む芸能・文化

 
島の文化の風を吹かせたい

照屋 平田さんは、本土の大学を卒業されて小浜島に戻られたのですが、戻る時、特別の思いのようなものはあったのですか?

平田 今の沖縄に対するイメージは、沖縄の人たちは温かく元気があり、いつもカチャーシーを踊っている、そんなイメージが強いと思います。それは、この10年くらいのことで、その前の沖縄は「ぜひ帰りたい」と思わせる魅力のある島ではなかった。私でさえ、小浜島にいたころ歌っていた歌、踊っていた踊り、そういう伝統芸能は古臭いという概念があったのです。ところが、東京で学んでいるうちに、沖縄では当たり前と思われていることが、世界的に見てもとても刺激的で新しいのではないかと感じるようになり、そのことを沖縄の人たちに知ってもらいたいと思って島に帰ったのです。

照屋 沖縄の良さを見直したわけですね。

平田 沖縄の良いところ、これは直したいという影の部分、両方をしっかり見つめながら、日々の舞台活動に頑張っています。どこの地域も同じだと思いますが、次世代の子供たちをどう育んでいくのか、この子供たちが元気でなければ10年、20年後のこの町も元気でなくなってしまいます。次世代の子供たちをどうするのかを真剣に考えました。

照屋 それが今の活動の原点ですね?

平田 そうです。大学の恩師の示唆もあり、自分の生まれた島で文化の風を吹かせたい、そういう活動で頑張りたいという気持になったのです。

 島に帰って始めたのが、「キビ刈り援農塾」と、詩集『南島詩人』の限定販売でした。キビ刈り援農塾は、昼はキビ刈り、夜は宴会と、島の人と旅の人との交流の場を設けていったのです。

照屋 キビ刈り援農塾は、村おこしの先進例ですね。平田さんの「キビ刈り援農塾」やその他の活動が評価され、1996年に県より「第1回島おこし奨励賞」の受賞となりました。

文化は習慣、生活そのもの

平田 復帰20周年記念(1992年)に県がミュージカル「大航海」を企画、当時私は24歳でしたが、即興舞台をやっていた関係で、主役の「アカインコ」に抜擢(ばってき)されたのです。沖縄三線の始祖「アカインコ」、吟遊詩人でもありますが、この舞台で全国27会場を回ることになりました。

照屋 平田さんは、笛は吹くし、三線(さんしん)は弾くし、太鼓も叩く、まさに適役。全国の反応はいかがでしたか?

平田 青森に行った時でしたが、会場から指笛が出る、沖縄の言葉も飛び出す。「あ―、ここにも沖縄の人がいるのだ」と出演者は涙が湧いてきます。「この青森までよく来てくれた」というウチナンチューの人たち、同じ島で生まれた根っ子のようなものを感じる、とても心に残る公演でした。

照屋 私も、復帰20周年で、東京沖縄県人会が行う大琉球祭のイベントとして与那原の大綱曳を引き受け、同じ経験をしました。沖縄の持っている芸能の力、ウチナンチューの結束の力を改めて感じるのです。

平田 このあと皆さんに見ていただく「大航海レキオス」は新作ミュージカルで、「大航海」がベースになっています。10年前に自分が出た舞台を次の世代の若い人たちに出てもらおうと考えたものです。

 「大航海」の主役に決まった時、「アカインコ」は旅をする。しかし、僕はまったく旅をしていない。これはまずいと思い、単身でインドネシアのバリ島に10日間滞在し、笛の作り方を習いました。沖縄の笛の作り方と方程式は同じです。指の穴の数まで同じ。その時、「沖縄の横笛は世界規格なのだ」と思いました。沖縄の音楽を沖縄のためだけに使うのはもったいない。世界レベルで知ってもらうのが良いのではないかと考えたものです。

 その後、島の青年団とバリ島行きを企画しました。その時とても印象に残っているのは、地元のガイドさんが、「文化は習慣です。顔を洗う、歯を磨くことと同じように生活そのものなのです」といわれたことです。

照屋 平田さんは新聞のコラムに、これからの沖縄で大事にしていきたいことを3つあげています。第1に、人の心を忘れないリゾート開発の展開。第2に、シマンチューの魂であるイベント化しない祭りの継承。第3に、島の自立の柱であるサトウキビ、その畑や製糖工場を守っていく。

平田 小浜島は周囲16キロメートルの小さな島です。そこの芸能・文化が海を渡って世界に広がっていく、世界をつなぐ役割をはたす。これはすごいことです。

照屋 沖縄だけでなく、全国どこにも生活と結びついた芸能がたくさんあると思います。これはまさに、地域の宝といえるのではないでしょうか。

子供が変わると大人が変わる、地域が元気になる

平田 旧勝連町(現うるま市)の市民ホールの初代館長になった時、地元の子供のための演劇ワークショップを始めました。小4から高3までの世代を超えた演劇による新しいコミュニテイーの場を作ろうということです。「肝高(きむたか)の阿麻和利(あまわり)」という舞台を担当し、公演も成功させました。

照屋 現代版組踊「肝高の阿麻和利」は沖縄の歴史にヒントを得た作品で、公演回数が101回になり、全国を回りました。

平田 これは2000年から始まった舞台で、約7万人の観客が来ています。「肝高の阿麻和利」を始め、地域にはいろいろな歴史のエピソ―ドがあります。それを舞台化するのです。

 舞台づくりを通じて感じたことは、子供たちが元気になる、変わることは大人たちを変える力になることです。大人が変わると町も変わる、元気になるということを学びました。

照屋 平田さんは「舞台をつくるのではなく、人をつくるのだ」とおっしゃっていますね。

平田 小さい時の感動体験、涙を流すような感動はとても大事で、これが5年、10年たって、ある時、感動体験の種が芽を吹き出します。子供の時、舞台をやるということは、そういう感動体験を積むことに意味があるのではないかと思うのです。

 そのため大事なことは、大人である僕たちが演じた時、「かっこいい!」と思ってもらえれば、あとは早いのです。言葉で言うだけではなく、やってみせる、子供たちは「なるほど」と思い、やってみる、失敗も許す。そうすると、教えるというよりも、自分たちで学びとり、頑張っていく子供たちになっていくのです。「見守る、見つめる」ということで良いのではないでしょうか。

照屋 平田さんの舞台づくりの実践にもとづくお話は、私たちの企業における人づくりにも共通しますし、さらに地域の文化、芸能、伝統行事を見直し、人間らしく生きていける地域を再生していく中小企業家の使命についても大きな教訓をいただきました。

 ありがとうございます。

(文責編集部)

 
照屋 義実氏
(株)照正組 代表取締役
1947年生まれ。商社勤務を経て復帰翌年に帰郷。まもなく商工会をベースに与那原大綱曳の継承発展や海辺のまちづくり等の地域活動に幅広くかかわる。同友会では1997年に代表理事に就任。2001年には産業界初の県教育委員長に就任。

平田 大一氏
有限責任中間法人 TAO Factory代表理事 南島詩人 那覇市芸術監督
1968年、沖縄県小浜島生まれ。2000年から与勝地域の子ども達による「現代版組踊・肝高の阿麻和利」を、05年から本格的な舞台「現代版組踊・大航海レキオス」の脚本・演出を手がけ、県内外から好評を博す。「第1回島おこし奨励賞」「第42回久留島武彦文化賞」「第27回琉球新報活動賞」など受賞多数。

「中小企業家しんぶん」 2007年 3月 5日号から