中越大震災から10年 復興をテーマに中小企業経営フォーラム開催【新潟】

 2014年11月14日、「復興10年。たくましく前へ、長岡~その先の未来へ」をテーマに、中小企業経営フォーラム2014が新潟の第2の都市長岡市で開催され、全県下より154名が参加しました。長岡は、2004年の中越大震災で被災した地域です。あれからちょうど10年が経過しました。今回のフォーラムはメモリアルな機会として、長岡支部の立候補により実現しました。フォーラムの概要や被災地の現状などを紹介します。

中越震災から10年

 2004年10月23日17時56分頃、68人が犠牲となった新潟県中越地震が発生してから10年が経ちました。

 最大震度7を記録し、3回の震度6の余震が発生、その後2カ月で計825回の有感地震を観測し、その冬には19年ぶりの豪雪となり、災害が長期にわたりました。住宅被害は12万棟以上、1万人近くの方が仮設住宅で暮らしました。

 その後、2007年4月に避難指示は全て解除され、同年12月にはすべての応急仮設住宅が完全閉鎖されました。

 新潟同友会では被害をうけた会員企業を支援するとともに、何度も被災地を訪れ、救援物資や炊き出しなどの支援を行いました。2005年2月には中小企業問題全国研究集会の新潟開催が予定されており、上越新幹線が脱線するなど開催が一時は危ぶまれる状況でしたが、全国同友会からの多大なる義援金と温かいお気持ちをいただき、新潟全研も成功裏に終了しました。改めて感謝いたします。ありがとうございました。

フォーラムの分科会報告から

 そんな中で今回、この長岡の地で、中小企業経営フォーラムを開催しました。同友会の目的「よい会社、よい経営者、よい経営環境」をもとに、3つの分科会を設置。その中のひとつに、十日町で酒屋1軒とコンビニエンスストアを4店舗経営されている(有)ミヤコウドリーム・(有)宮幸酒店社長の宮入正吉さん(長岡支部会員)の報告がありました。 常日頃から「近くのお客様に喜ばれる店でありたい」と考え経営されてきた宮入さんが、中越地震に見舞われた翌日のことです。乱れた店内をどうにか後片付けをして、電気も点かない中で翌朝6時から営業を再開したところ、大勢の地域の方々が生活用品を求めて次々とお店にやってきたとのことでした。

 小売業は変化対応業であり、常にお客様の立場に立った考えをすることの大切さは創業から22年経過した現在も変わっていない。酒屋もコンビニエンスストアも商売の原点は一緒で、環境が大きく変わっても基本を変えず、その環境に合ったお店を目指せば良いというお話でした。

10年後の今の山古志

 当時、テレビによく取り上げられていた旧山古志村は周辺市町村同様に、農地や住宅が壊滅的な打撃を受け、震災2日後には住民2200人全員が市街地への非難を余儀なくされました。震災後すぐに行った住民アンケートで9割以上が「山古志へ戻りたい」と回答していましたが、高齢化が進み、2014年11月の時点での人口は1126人となっているのが現状です。

 震災以降、県から派遣されてきた支援員や長期ボランティアが関わり地域の復興を後押ししてきた中で、新たに牧場を作り、それをもとに衣類や小物の製造販売をするなどの産業を立ち上げたり、またNPO法人を立ち上げ、集落ごとをつなぐコミュニティーバスを運営し、交流人口を少しでも増やす試みを行ってきました。

 しかし、10年経った今年、その支援員制度などが終わろうとしています。集落は自立を求められているわけですが、復興や地域の活性化に向けた動きがどれだけ継続できるかが課題となっています。

1区切りの10年、そしてこれから

 まずは1区切りの10年が経ちました。長岡と言えば、戊辰戦争(1868年)や第2次世界大戦(1945年)など、過去には2度にわたり市街地の大半を焼失し、その都度先人のたゆみない努力によって、今日の繁栄を築いてきた街です。

 そのようないくつもの災害を乗り越えてきた長岡市民の基本には、「米100俵の精神」が刻まれています。時の長岡藩の大参事 小林虎三郎が言った言葉で、「100俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の1万、100万俵となる」というものがあります。その日暮らしではなく、後年を見据えて新しい長岡を生み出そうとする精神が、脈々と受け継がれて今があるのです。

 復興の10年で生まれた絆や地域の結束力を糧に、次の10年その先の未来に向け、「たくましく前へ」と進んでいきます。

新潟同友会事務局 瀬野 弘貴

「中小企業家しんぶん」 2015年 1月 15日号より