江戸時代を「献策の時代」と捉える

日本人はいつから政策提言するようになったか

 江戸時代の政治と民衆の関係を再検討すると、意外な実態が見えてきます。

 庶民は政治的発言を封殺されていたどころか、逆に「民百姓による御政道への口出し」には相当に激しいものがあり、領主政治もそれに大きく規定されていたことがわかってきたのです(『日本の歴史・12、開国への道』小学館)。

 民意の表明を保証していたのが、訴願(訴訟と請願)という制度。政策に民意を反映させる独自の制度をつくりあげたからこそ、徳川幕府は260年もの間、安定的に維持されたといってよいでしょう。

 一方、社会は、地縁・血縁・身分・職業など、さまざまな社会関係によって利害を異にしており、主張する意見も多様です。世論はつねに分裂しているといってよいでしょう。

 江戸時代の権力=幕府や藩といった領主層は、意外なほどに民意=世論の帰趨に神経を使い、対立する世論を合意に導くことに腐心していました。いわば民意吸収と利害調整です。領主が民衆と対立する側面はもちろん存在するが、領主は官僚機構を通じて民の声に対応していたともいえるでしょう。

 江戸・大坂・京都で提出された願い事の内容を分析すると、塵芥処理や川ざらえ、橋の修復の請け負いなど、都市機能の維持にかかわるものや、町火消人足役の請け負いのように防災対策にかかわるもの、借家人・奉公人など、下層の都市住民を管理する組織の設立願い、金融機関の設立、商人仲間の設立など、さまざまな提案があります。町奉行所が採用したものは限定されていますが、政策提案といってもよい内容のものが少なくなかったのです。

 こうした流れでとらえると、享保6年(1721年)、8代将軍徳川吉宗が評定所門前に目安箱(訴状箱)を設置したことの意味も、より明確になります。

 庶民が町役人の添え書なしに投書・献策することを可能にした制度です。庶民からの意見吸収を可視化する象徴的なシステムであったともいえます。広く庶民の意見を受け止める目安箱システムの確立へと、時代は確実に転換していました。

 領民に意見を求める場合、治世について批判されることを覚悟しなければなりません。意見書のなかには、武士の風儀矯正をはじめ藩の諸政策を驚くほど厳しく批判したものもあります。

 しかし、それを理由に処罰された形跡はありません。政治批判は御法度だったわけでなく、むしろこうした事例は、批判に対する藩の許容度の高さと言論の拡大状況を示しているといってよいでしょう。

 経済に通暁した人々の間では、独自の市場戦略を構想し、領主に対して積極的に献策を行う動きが顕著になっていきました。例えば、水戸藩では、寛延期すなわち18世紀なかば以降、産業開発姿勢を強め、領内の商人や有力農民だけでなく、江戸・大坂・京都の商人など幅広い範囲に及ぶ献策を受け入れています。これら多数の出願が藩の会所仕法や殖産策などを誘導・具体化しました。献策の活性化および民間の資力と知恵を存分に活用する藩の姿勢を見て取ることができます。

 同友会の政策提言もこのような伝統に基づいていることを自覚したいと思います。

(U)

「中小企業家しんぶん」 2014年 2月 15日号より