同友会は、創立以来「中小企業は平和の中でこそ繁栄する」との基本理念に立ち、「日本経済の自主的・平和的な繁栄をめざします」を掲げて運動を進めてきました。このたび中同協では本紙8月15日号の平和特集記事を中心に、『語り継ごう、平和への熱い想(おも)い―中小企業は平和の中でこそ繁栄する』を刊行しました。
第1部は、戦後60年を記念した本紙のシリーズ「2005年特集」をすべて掲載。第2部は、2001年以降の本紙平和特集から16篇を収録。第3部は、戦後50年の記念企画である中同協第27回総会(1995年、滋賀)分科会「企業理念と平和の課題」を収録。第[4]部は、昨年1月逝去された庄野慎一郎・中同協顧問が生前書きまとめた作品を遺稿集として掲載しました。
本書に脈々と流れる平和への熱望を多くの方に伝えようと、中同協では普及を呼びかけています。A5判140ページ、頒価1000円、各同友会事務局にあります。
『語り継ごう、平和への熱い想い』発刊に寄せて
思いを受け継ぎ 平和を守りたい
中同協会長 赤石 義博
無数の光が交錯し輝く夜景は実に美しい。函館山からの夜景、大東京の夜景、そして街々の夜景に見とれた人も多かろう。小さな家からぼんやり漏れる窓辺の明かり、カーテンの中には平穏なくらしが広がっている。
太平洋戦争敗戦の日、私は小学校6年生の夏休みであった。戦争が終わったという実感は、空襲警報がなくなり静かに朝が始まったこと、夜、家中が明るくなり、隣の家も、向かいの家も、町中が明るくなったことだった。それはいいようもない開放感であり、平和であることへの安堵であった。
日本は空襲を受け、艦砲射撃の攻撃を受けた。今まで元気だった人が瞬時で死んでいった。善意の市民を、身内を、故なく殺された者にとって、理屈抜きにその理不尽な攻撃者を呪わずにはいられなかった。
しかし、くらしの場が戦場になったのは沖縄県だけであった。くらしの場が戦場になれば、一般国民の悲惨さがどれほど深刻なものか知ったのは沖縄の人々だけであった。アメリカは1度も体験していない。ヨーロッパは2度体験している。その差が、あるいは戦争観の温度差になっているかもしれない。
日本の場合、本土は戦場にはならなかった。しかし、東京や主要大都市をはじめ、臨海工業都市は徹底的に破壊され、一般市民も巻き添えになった。過酷な運命に曝(さら)されたのが、広島、長崎の一般市民であったのは周知の通りである。
中小企業家・自営業者も厳しい立場に立たされた。家も、工場や店舗も戦火で焼かれ、有能な幹部や熟練工が死んだり傷ついていた。戦時中、軍に接収または国に借り上げられた資産の返済や保障はゼロになった。超インフレの影響で僅(わず)かな価値になってしまったとはいえ、その預金も封鎖され、傾斜生産政策で電気も満足に供給されず、資材入手を制約された。焼け野原に立って、ただ茫然(ぼうぜん)自失する者も少なくなかったはずである。
国土を覆う悲惨な現実と、そうした事態を招くに至った明治以来の歴史の反省から「いうべきことは言わねばならない」、そのためには自助努力を強め、自立を確かにすべきとして立ち上ったのが、我が中小企業家同友会の諸先輩であった。創立の直接的動因は、不公正課税に対する反発、金融や資材の円滑な供給要望、公正な競争条件の実現などであったが、底流に流れる一大認識は「平和であってこそ中小企業は繁栄する」という実感であり、被害者である一方では「物言わぬため」に、結果として加担者にも擬(ぎ)せられるという思いでもあった。
戦前・戦中・戦後の歴史の生き証人ともいうべき故庄野慎一郎氏(中同協顧問)の遺稿集を掲載することも「思いの受け継ぎ」である。
同友会運動の新たな半世紀を迎える今、会創立期諸先輩の謦咳(けいがい)に直接接した数少ない現役会員として、会創立土壌精神の一隅に光を当て、「自主」のよって立つ意味を思い起こさせる本書を形に残せることは、継承の責務を1つ果たす思いでもある。事実の記録としても読み伝えて頂ければ幸いである。(中同協発行『語り継ごう、平和への熱い想(おも)い』より)
「中小企業家しんぶん」 2007年 1月 15日号から