子ども・若者は必ず輝く―大東文化大学文学部教授 太田政男氏

心を解きほぐし、共に歩んで

 11月10~11日、山形で行われた「第21回社員教育活動全国研修・交流会」(中同協主催)より、太田政男・大東文化大学文学部教授の基調講演「子ども・若者は必ず輝く~心を解きほぐし、共に歩んで」の報告概要を紹介します。

社会的閉じこもりにある若者

 現代日本の若者の最大の問題は、「閉じこもり」「引きこもり」にあります。それは、家や部屋に引きこもるという狭い意味ではなく、政治的社会的に引きこもり状態にあるということです。

 トスカーニ氏によるイタリアのベネトン社の広告は、1度も自社の製品を載せたことがないユニークなものです。これまで、人類的課題ともいえるような世界中の社会問題を取り上げて、自社のポスターにしてきました。そのポスターに「日本の若者」が取り上げられたことがあります。なぜそれが人類的課題なのか、トスカーニ氏によればこういうことだったようです。

 「日本の若者は、世界一清潔でおしゃれで、暴力とも無縁、まるで天使のようだ。しかし、だれも政治や社会について語らない。日本の現実を無意識に拒否する彼らは、実は悲劇の天使ではないか。現実感と目的を失って想像の世界に遊ぶ天使。それは、われわれが今後直面する、悲劇の前触れなのではないか」。

 政治や社会について語らない、生きる目的を失っている、そういう意味で人類的課題だということです。

 社会を拒否する若者、時には仲間・家族をも拒否する若者。他者、他人と関係が結べず、自分の外にある社会・世界を拒否しているように見えます。

自尊感情が低い日本の若者

 なぜ1人でいることを選ぶのでしょうか。もしくは、小さな集団の中だけで生きていこうとするのでしょうか。

 彼らは、他者に立ち入らない“やさしさ”を持っています。防御し、自分の前にバリアを張る“やさしさ”です。すでに十分傷ついている若者たちは、他者と関係を持つことで傷つくことを恐れています。ほかの国と比べても、日本の若者は自信、誇り、自尊感情などの欠如、低さが際立っています。

 「そうはいっても、今の若者は生意気ではないか」という声も聞こえてきそうです。確かにプライドは高いのですが、危ういプライドです。ささいなことで傷つき、自殺してしまう。自分を愛する対象にしてしまうナルシシズムにも通じます。

競争からは育たない自尊感情

 自尊感情は、他者との交わりの中で認められ、励まされ、ほめられて育ってきます。しかし、80年代後半からの敵対的排他的競争関係がまん延する中で育ってきた若者には、自尊感情は育ちにくいのです。励ましあうのではなく、蹴(け)落としあい、他人と比べられる競争ばかりの中では、人間はバラバラになってしまいます。

 さらに、自己責任が過度に強調され、子どもまでが「勝ち組、負け組」を口にする環境下では、人間が共に生きることは難しくなってきています。

人間にとって学ぶとは

 「学ぶ」とは「変わる」ことです。変わらなければ学んだことになりません。学んだことによって能力がついた、社会に対する見方が変わったなどの体験をしたことはだれにでもあるでしょう。

 人間が生きる上で、学ぶことはどうしても必要です。

 1つは、生物学的な意味においてです。動物学者ポルトマンが、「ほかの動物と比べ、人間は1年早産で生まれてくる」と言っていますが、その分だけ人間は社会の中で学んで能力を獲得しなければなりません。人間は、誕生後早い時期から、本能の占める割合が低くなるわけです。

 もう1つは、社会的意味あいから人間は学ぶ必要があるということです。人間は文化をつくってきましたが、文化は遺伝で引き継ぐことはできません。言葉や文字は社会の中には残っていきますが、遺伝子の中には残りません。ですから、学んで身につける必要があります。

学ぶことで社会の形成者に

 学びの原動力は、自分で自分を変えようと思う気持ち、育ちたいという思いから出てきます。

 しかし、日本の子どもたちは、喜んで学びに立ち向かうことはしなくなっています。10年前、日本の子どもは、世界でいちばん勉強時間が長く、学力が高く、かついちばん勉強嫌いでした。現在、日本の高校生は、平日に自宅で勉強する時間がゼロという生徒が50%を超えています。

 このことは、私たちに対して学ぶことの意味を問うているのだと受け止めたい。なぜ学ぶのか。戦前は、国のため、天皇のため、いい兵隊になるためでした。戦後は、教育基本法第1条にあるように、人格の完成をめざして学ぶようになりました。学ぶことで、平和的で文化的な社会の形成者になって、公共的な目的を果たせる人間になろうということです。

学びの社会性

 なぜ学ぶのかを別の角度から考えてみると、1つには学ぶこと自体の面白さがあります。学ぶことによって世界が違って見えてくる、物の本質がわかるようになる面白さです。これは快感です。2つには、人のため、社会のために学ぶのだといえます。学問はそもそも公共的な目的のため、人を貧困から救うためにあります。

 他者や社会に対する関心があって、はじめて学ぶ意味、意欲が出てきます。そして、人間の幸せの質や豊かさは、どれだけ心の中に多くの人間が住むかに比例してくるのです。つまり、幸せとは1人では成り立たないものです。

フィンランドの学力はなぜ高い

 OECDが実施した国際学力調査でフィンランドが「世界一」となったことで注目を集めています。ここでいう学力とは、問題解決能力、思考力、読解力など本質的な学力という意味です。

 なぜこういう結果が出たのか、フィンランドの教育省がその背景を次のようにあげています。

1.家庭、性、経済状態、母語に関係なく、教育への機会が平等であること。
2.どの地域でも教育へのアクセスが可能であること。
3.性による分離を否定していること。
4.すべての教育を無償にしていること。
5.総合制で、選別をしない基礎教育。
6.全体は中央で調整されるが、実行は地域でなされるというように、教育行政が支援の立場に立ち、柔軟であること。
7.すべての教育段階で互いに影響し合い協同する活動を行うこと。仲間意識という考え。
8.生徒の学習と福祉に対し個人にあった支援をすること。
9.テストと序列付けをなくし、発達の視点に立った生徒評価をすること。
10.高い専門性をもち、自分の考えで行動する教師。
11.社会構成主義的な学習概念(socio-constructivist learning conception)。

 私も今年フィンランドへ行きましたが、行く先々の学校で「うちの学校は障害者、外国人、落ちこぼれの子どもを大切にしている」という話を聞きました。経済のために、教育を重視したのではなく、一人ひとりの子どもの幸福を大事にすることで、結果として経済競争力がアップしたのです。

若者と育ちあうリーダーの条件

 若者と育ちあうには、経営者の皆さんの人間観、教育観が問われます。1人の人間を見る時、外に現れた面や1面だけを固定的に見るのではなく、さまざまな面を持った矛盾の塊と見ることが必要です。どうしても外に表れる面だけを見て評価しがちになるからです。

 また、経営者の期待が大きすぎたり、特定の人間像を押し付けたりすると、若者のあるがままの実態がみえにくくなってしまいます。

 特に、上に立つ者の条件として、高い公共性のある理想を掲げること、経営者でいえば経営理念が大切だと思います。若者が納得して意味を持って働くために欠くことができません。

参加させ、任せること

 若者の成長には、居場所をつくり、参加させ、出番をつくることが重要です。私はゼミの運営を学生に任せていますが、これがいちばんの教育と学習の場になっています。学校づくりに生徒を参加させ、教師とも対等の関係で運営にあたらせ、力を引き出している高校もあり、全国には高校生に店舗を任せている高校が72校もあります。「あんな子どもたち、若者たちにはとても任せられない」と言っていたら、永久に任せる場面はやってきません。学校も会社もゆとりはないかもしれませんが、問題を持ち、悩んでいる若者たちに、学校づくり企業づくりに参加させることが、もっともいい教育・学習だと思うのです。

「中小企業家しんぶん」 2005年 12月 5、15日号より