環境経営の実践を!―未来のこどもたちのために―NPO法人「森は海の恋人」代表 畠山重篤氏

【第6回中小企業地球環境問題交流会in香川】

 第6回中小企業地球環境問題交流会が2011年11月25~26日香川県高松市で開かれ、36同友会と中同協から、381名が参加しました。記念講演を紹介します。

「森は海の恋人」~震災復興にむけて

 3・11の大津波の被害を受けまして、牡蠣を復活させる真っ最中のときに、同友会のみなさまがボランティアにきてくださいまして、ホタテ貝の殻に牡蠣の種がついているロープを筏(いかだ)につける作業をしていただきました。間違いのない作業をしてもらい、順調に牡蠣が育っていますので、成長した頃にぜひ来ていただきたいと思います。

 さて、私は三陸リアス式海岸の気仙沼湾で、親父の代からホタテ貝や牡蠣の養殖業をしています。このたび津波があり、4代目となるだろう孫から「この仕事はあぶなくて、生活していけないじゃないの?」と聞かれたことがありましたが、「今に見てろ! お前が大きくなったころには、おじいちゃんが絶対に復活させて見せるから」といって復活にむけて頑張っているところです。

赤潮と沈黙の春

 親父と仕事をはじめた頃の気仙沼湾は全くきれいで、何の問題もなく牡蠣が育っていました。しかし、昭和40年代に入り公害が出てくるようになりました。私どもの気仙沼でも赤潮という海が赤くなる公害がおき、牡蠣が死んだり、成長が悪くなったりしました。最も汚い海で繁殖するという赤潮プランクトンが大発生していたのです。

 牡蠣は1日にドラム缶1本分200リットルの水を吸って呼吸しています。水と一緒に、プランクトンを食べています。赤潮プランクトンを選別して食べるわけではないので、すべて取り込んでしまいます。そうすると牡蠣が真っ赤になり、普通の赤ではなく、まさしく血の赤と同じ色になってしまいます。

 私たちは海ばかり見ていたのですけど、反対側の山を見ざるを得なくなり、川がどうなっているかと久しぶりに河口にいってみました。気仙沼には大川という川があります。以前の河口は、大きな干潟があり、いい風景が広がっていました。そこが埋め立てられコンクリートで固められていました。川の石垣をみると魚の加工の排水などで油がついて真っ黒く汚れて、また家庭排水の影響で側溝は見られた状態ではありませんでした。これでは「海が汚れる」とショックを受けました。

 もう少し上流へいくと、そこには水田地帯の田んぼがありました。以前は昆虫や生物で田んぼがすごくにぎやかでした。しかし久しぶりに田んぼにいってみると、田んぼがしーんとしてやけに静かでした。「なんだろう?」と思いました。レイチェル・カーソンが書いた『沈黙の春』という本は有名ですが、農薬や除草剤にまみれた農地は、文字通り生き物がいなくて沈黙していました。そういうさまざまな現状・問題がある最後のところに私たちの養殖場があります。約30年前、このような問題を訴えましたが、結局、学者も行政もあてにならないということが分かりました。

森と川と海はひとつ

 漁師が海に出ますと、まず海ではなく山を見ます。天候や位置を確認するわけです。その重要な山の1つに室根山があります。その室根山にある神社のお祭りは1200年ほどの歴史があり、海の民と山の民が連綿と交流を続けてきたお祭りとなっています。そういうつながりがありましたので、室根村の人と私たち漁師とは交流がありました。 そこで室根山に漁師の目印になる森をつくってみたらどうかと考えました。つまり、森と川と海はひとつのものだということをアピールするイベントをすれば、世の中の人は後ろを振り向いて関心をもつのではないかと考えました。そこで室根村の村長へ交渉にいきました。

 村長さんの言った言葉は今でも忘れません。「川の河口の町から『川を汚すな』とだけ言われてきました。私たちは森を守ってきましたが、『ありがとう』といわれたことが1回もない。川ではなく海で牡蠣の養殖をやっている方が、山で森を守っている私たちに『ありがとう』と言ってくれるのは歴史的なことだ。よろこんで協力しましょう」と快く許可してくれました。

森は海を 海は森を 恋いながら 悠久よりの 愛紡ぎゆく

 スローガンが必要と最初に私が考えたのは「ワカメも牡蠣も森の恵み」です。仲間から指摘されもう1度考え直すことになりました。さて、気仙沼は短歌がさかんな地域です。熊谷武雄さんという気仙沼を代表する歌人の歌碑を叔父に誘われて見に行きました。歌碑には「手長野に木々はあれどもたらちねの柞(ははそ)のかげは拠るにしたしき」と刻まれています。「手長山にはいろんな木々があるけれど、ナラの木の林の中に入るとお母さんの傍(かたわら)へ行ったように心が休まる」という意味です。「たらちね」と「柞」は「ナラやクヌギの木の古語」で「母」にかけています。100年前の歌人が雑木林を自然界の母になぞらえているのです。

 その熊谷武雄さんの孫の熊谷龍子さんは今でも歌を詠んでいました。彼女を海に招待し、牡蠣の養殖の場所へ連れて行って、海水で洗っただけの新鮮な牡蠣やウニを食べていただきました。彼女は感激し、「今まで私は山から海を見ていたのですけれども、海側から山を見るというのは初めて」と歌詠みのインスピレーションが湧いてきたようで、一首の歌が生まれ、後日送ってこられました。

 「森は海を 海は森を 恋いながら 悠久よりの 愛紡ぎゆく」という歌です。私のつくったスローガンとはえらい違いで、文化の差とはこういうものです。「森は海の恋人」という言葉は、歌人の100年家系の中から生まれた、時を経るごとに光を放つような言葉なのです。言葉の世界は力があると感じました。

漁師が山に木を植えるそして意識を変える

 平成元年に「漁師が山に木を植える」というイベントが始まりました。山に大漁旗をいっぱい立てて木を植えました。意外に緑の背景に大漁旗が映えるものですから、マスコミの方々もみんな驚き、全国報道になり、全国からいろんな問い合わせがきました。私たちがやっていることは思ったよりも意味があるとわかりました。そこで、すぐに感じたことは、山には木を植えたら木は育ちますが、問題は川の流域に住んでいる人の意識をどうやって変えていくかということです。それは教育の世界にいかなければとすぐに思い、山手の小学生を海に連れてきて体験学習をしようと考えました。

 そう考えると漁師はすごくいい立場にあります。人間が流すものがすべて海にきますから、川の流域の人々が何を考えているが全部わかります。牡蠣は全部知っています。牡蠣から聞けば人間の生きざまがわかるということです。

 小学校の校長先生の許可をいただき、平成2年に子どもたちが私の牡蠣の養殖場のある海にやってきました。子どもたちから「牡蠣の餌はどうするのですか?」と質問がきました。「えさはいらないんだよ、海にいる植物プランクトンを食べて大きくなるんだよ」と答えました。農家の子どもたちですから、育てるために肥料など手間暇をかけてやるのが当たり前と思っていたのでしょう。「漁師さんは泥棒みたいですね」とすごい言葉を使って返してきました。「山や森に降った雨が、川を通ってこの海まで来るおかげで植物プランクトンが殖えて、こういう海の生きものが育つんだよ。泥棒と言われたくないので今日はいっぱい牡蠣を食べてね」と話しました。そこでアイデアが浮かび、プランクトンをコップに入れて見せて、「君たちもちょっと牡蠣の身になってこれを味わってみないか?」と全員に飲んでもらい、その後、顕微鏡で見てもらいました。

 プランクトンにはとげがあったり、すごい顔や姿をしていたりします。子どもたちは大騒ぎです。この子どもたちのショックがまたいいのです。おいしい牡蠣をたべて、そのえさであるプランクトンを見てもらいます。教育者が真っ青のフィールドワークです。

 またそのあとに、食物連鎖の話や水俣病の話をしました。「1キログラム のカツオは10キログラムのイワシを食べる、10キログラムのイワシは100キログラムの動物プランクトンを食べる、100キログラムの動物プランクトンは1000キログラム の植物プランクトンを食べないといけないんだよ」と食物連鎖を教えます。

 そして、「水俣病は、薄めれば大丈夫だと思っていた有害な有機水銀が、食物連鎖で魚に凝縮されてしまい、それを食べてしまったお母さんから胎児にいってしまい病気になってしまったんだよ」と伝えました。子どもたちは何かを敏感に感じていました。

 体験した子どもたちから、やがて感想文が送られてきました。例えば「体験学習に行った次の日から、朝シャンで使うシャンプーの量を半分にしました」という女の子の感想文です。化学物質は、川から海に流れ、植物プランクトンやさまざまな生き物に影響するという話を覚えていたのでしょう。また、「お母さんそんなに洗剤を振りかけると、最終的に、この台所の排水は海まで流れて行って、海の生きものの中にその化学成分が溜まって、結局、最後は人間に返ってくるんだよ」と娘が母親に説教をすることにもなったようです。農家のお父さんに息子が「ほんの少しでいいから農薬を減らしてください」と言うようになりました。 この子どもたちの感想文を大事に保管していましたが、津波で全部流されてしまいました。私の過去を全部流されてしまった気持ちです。

大津波からの再起をかけて

 徐々に「森は海の恋人」の活動の意味が見えてきました。また、川の流域に住んでいる人の意識がずいぶん変わってきて、気仙沼の海が良くなり、川も良くなってきて、「孫に恥じることなくこれで引退できるな」と思っていたら、3・11の津波がきました。実はチリ地震の津波を体験していますが、今回は規模が全く違います。津波は川を上って、山奥のとんでもないところまで津波がきました。

 津波があっても、「海さえ戻ってくれればなんとか頑張れる」と希望をもっていましたが、震災後、海には生き物が全くいなくなりました。海は死んだかと思い、あきらめかけた頃です。1カ月後ぐらいに孫が「おじいちゃん魚がいる」と言うんです。海のにごりもきれいになっていました。その時を境に、なんと魚や生き物がどんどん増えてきました。大学の先生が津波の後の海の調査をしてくれました。その後、魚がどんどん増えてきました。プランクトンも調査して大丈夫なことが分かり、有害な重金属もないことが分かりました。そこで、これならできるとお金を借りて、山から木を切り、筏をつくって、早速6月ぐらいから養殖の仕事を再開しました。そして今、その牡蠣の育ちがいいのです。牡蠣は育っています。ぜひ食べにきてください。最後に、1度は皆様自身の目で被災現場を見ておく必要があると思います。ありがとうございました。

「中小企業家しんぶん」 2012年 1月 5日号より