未来を見据えた復興は「産業」と「教育」

ふたつの離島を分かつもの

 被災から20年。7月12日、北海道・奥尻町は600人で20年目の追悼式を執り行いました。東日本大震災後、奥尻島における津波被害からの復興への取り組みが、大きく注目を浴びてきました。しかし、多額の公的資金で安全・安心対策を進めても、産業振興がおろそかでは、街の衰退が避けられないのは明らかです。

 土地を準備し、自宅を再建した場合は約1400万円助成、商工業者にも約4500万円を上限に助成し、漁業者には漁船を用意し漁業再開を助けました。その結果、地震を理由に島外へ転出した住民はわずか3世帯。地震から5年後、当時の町長は議会で「完全復活」を宣言しています。

 しかし、直近の2005年から2010年の人口減少率は町として全国で2番目の高さを記録するなど、奥尻町の衰退は進んでいます。現在3000人弱の人口はコミュニティー機能の維持も難しくなりつつあります。また、総延長14キロメートルにおよぶ防潮堤は、最高10メートルを超える高さで津波から街を守りますが、風光明媚な海岸線が一変したため、観光業に少なからぬ打撃を与えたのは間違いありません。

地域の担い手の育成を

 明治大学危機管理研究センターの中林一樹特任教授は言います。「未来を見据えた復興が必要なことは、みんな頭ではわかっている。だが、被災者の側に立てば立つほど半年先の復旧に取り組まざるを得なくなる」「奥尻では住民の離島を防いだことに行政が満足し、住民らと子供や孫にどんな島を残すか議論しなかった」「行政が苦手とする、地域の担い手や新たな地場産業の育成を、民間と連携しながら進めて“被災地の未来”を描く作業を急ぐべきだ。奥尻から得るべきヒントを防潮堤整備に求めるなら、過ちは繰り返される」(「産経ニュース」2013年7月12日付)。

若者がめざす離島

 一方、隠岐諸島の海士(あま)町は産業振興で人を呼ぶことに成功。2004年からの9年間で、島外から海士町に移住(Iターン)したのは361人、帰郷者(Uターン)は204人に上ります。しかも、20~30代の若者が中心で、移住者が海士町全体の人口の2割を占めるほどです。

 かつては、過疎化と財政破たんの危機に直面する離島でした。この状況を大きく変えたのは2002年に就任した海士町の山内道雄町長。自らの給与は50%に削減、町役場の職員の給与は最大30%カット。その節約分を産業育成への投資に回し、数億円を投じて建造したのがCASと呼ぶ特殊な冷凍施設です。CASにより島特有の岩ガキや白いかなど海産物の島外配送が可能になりました。

 そして、2008年に「高校魅力化プロジェクト」を立ち上げます。廃校寸前の隠岐島前高校を「島留学」や公営学習塾の設置でよみがえらせます。こうして、教育問題を解決しました。

 ほぼ同じ人口の奥尻町と海士町。2島を分かつものは何か。「産業」と「教育」ではないでしょうか。しかし、海士町も危機から10年です。奥尻島、がんばれ。

(U)

「中小企業家しんぶん」 2013年 9月 15日号より