特集:戦後80年 語り継ごう平和への思い

2025年8月15日、80回目の終戦の日を迎えます。同友会は「中小企業は平和な社会でのみ繁栄を続けることができる」との立場のもと、「中小企業の経営を守り安定させ、日本経済の自主的・平和的な繁栄」をめざすことを3つの目的の中で掲げています。平和の大切さを心に刻むべく、本号では平和特集として全国の会員から寄せられた平和への思いを紹介します。

戦後80年の夏に思う
みらい経営研究所 代表 淺海 正義(愛知)

愛知の5月は真夏日が続き、少し異常な気候だった。テレビがロシアとウクライナの戦況を報じ、ウクライナ側の新兵器が映されていた。それは、黒海でロシア艦船を攻撃する小型船舶の映像で、ミサイルを装備した高速のモーターボートといった感じである。説明によると、無人で自動運転とか。おそらく運転は安全な後方からの操作で、よく見るドローンの操作盤である。兵器の進歩はめまぐるしく進んでいる。しかし、戦争回避や平和への歩みは遅い。人間とは何なんだろうとさえ考える。

ところで、80年前の日本海軍も「震洋艇」という同様な戦術兵器を使っていた。これは、生身の人間が操縦する2人乗りの快速艇で、いわゆる特攻兵器の頭部に250キログラムの爆装をして、敵艦に操縦者もろとも激突するものである。物資の枯渇する中、合板木製の粗末な造りで、トラック用のエンジンを装着していた。

変わらない「戦争」に天地の変化が現れだした。だから、これを進歩だとは到底言うことはできない。

1945年8月16日

80年前の夏、8月16日、昼近くに「総員、練兵場に集合」の指令が、各兵舎の拡声器から鋭い声で流れた。

私は「高知県浦戸海軍航空隊」にいた。最後の新設練習航空隊であった。開隊は44年11月で、私たち甲飛14期生(第14期甲種飛行予科練習生。予科練習生とは旧日本海軍の航空兵養成制度で、主に10代半ばの少年が対象)は、松山海軍航空隊から転隊してきた1000名であった。その後45年春までに15期、16期と入隊してきたが、逆に14期生は選抜されて「特攻要員」として転隊したり、他の期ともども陸戦隊要員として出ていったり、残留14期生は航空隊の周辺の山に陣地構築したりで、そのときに集まったのは500名ぐらいか。

壇上に上がった副長(司令官の次席)から「昨15日の天皇の重大放送は日本の敗戦を決めたものだ」と訓辞があり、衝撃で茫然(ぼうぜん)自失した。放送は兵舎のスピーカーで聞いたが、雑音が激しく意味が不明で、「一層奮闘してほしい」そんなことと思っていたのに、照り付ける太陽に汗と涙が入り交って足元の赤土に滴り落ちた。「いまだどうなるかわからないので、現体制は保持せよ」と締めくくった。私は急に中国・大連の父母や弟が思い出された。日頃はあまり思い出すこともなかったのに。

浦戸航空隊は最後まで何事もなく、退職金も支払われて順次帰郷して行き、解散することができた。当時の浦空は有名な名所「桂浜」の東5キロメートル、高知空港の西7キロメートルの地点にあった。山に囲まれたような盆地があり、太平洋の海岸に面した一部に山並みが途切れて開かれ、そこが隊の正門にされていた。土佐湾の波打ち際まで500メートル、土用波が大きく打ち寄せていた。他の位置関係は、北西方向のJR高知駅まで直線で8キロメートル、NHK連続テレビ小説「あんぱん」の舞台となったJR御免駅は北東方向7キロメートルである。

終戦翌日の惨劇

戦争が終わった翌16日、他の基地で悲劇が起こった。日が落ちたころ、「敵艦隊土佐湾に向けて北上中、わが軍と交戦中、総員配置につけ」とスピーカーから慌ただしい指令が飛んできた。兵舎で休憩していた隊員は、慌ただしく走り出していった。

私も指揮小隊に所属していたので、隊門東100メートルほどの山頂に作られていた陣地に急いで駆け上がり配置についた。展望の利く私たちの陣地、洞窟からは土佐湾が半円形でくっきりと見渡せた。

はるか太平洋の水平線で、激しい火柱が交差していた。「激戦だ」「いつ艦砲射撃がくるか」「米軍はどのあたりに上陸するか」 みんなが口走ったが、指揮小隊には火器はなく、対戦車地雷と瀬戸物の手榴弾が何箱かあるだけ。みんなは、中等学校時代の教練で鉄製の手榴弾を使って訓練していたので、これでは勝ち目がないことを薄々感じてはいた。それでも、降伏するとは思えなかった。海岸線東方15キロメートルに連続して爆発火炎の姿を見たと記録がある。

洋上の激しい閃光はいつの間にか消え、静寂の闇が流れた。ほどなく「敵艦隊北上は誤報、対戦配備を解く、通常業務に移れ」との指令。人員配置だけのわが小隊は身軽に北側の山すそに位置した兵舎に戻った。

事後なんの報告もなく、数日後、派遣されていた練習生が特攻訓練基地から帰還。陸戦隊からも帰還して、順次身辺整理の完了した練習生から退職金を受け取り、急いで帰郷していった。

最後に外地から入隊した集団が離隊すると、残務整理のため、主に士官、下士官が残留した。私は帰る場所もなく、倉敷海軍航空隊の残務整理につてを頼って助けられ、親戚と父母弟の帰還を待つことにした。幸運は続き、1年ほどで家族4人は大阪駅頭で再会し、新しい人生が始まった。

後年、この出来事について驚くべき記録が発表された。8月16日午後7時ごろの火柱事件は、夜須町手結にあった128震洋艇特攻基地の「敵艦隊土佐湾に向けて北上中、わが軍と交戦中、出撃用意急げ」の指示により急遽出撃整備進行中、漏れたガソリンに火花が飛び、火災が発生。装填した250キログラムの爆薬に引火、大爆発を起こし、始動中の20隻ほどの「震洋艇」に次々に誘爆、111名の死亡者が発生していた。

第2次世界大戦の膨大な加害、被害の戦没者に対しては、この出来事はごく一例にすぎない。だが、あの瞬間、私も死を覚悟した。生涯忘れることはできないし、ましてや再び繰り返したくないのに、何か嫌な雰囲気を感じるのは私だけだろうか。

平和への不断の努力を

日本は敗戦により、新しい憲法を制定した。いろいろな見方、言い分もあるようだが、以後、日本は自らの意志で戦争に参加したことはない。

実情に合わなくなったと憲法を変えようとする動きが出てきている。特に9条の文言に集中しているようだ。

第1次世界大戦の惨禍を経た1928年、15カ国が主導して署名し、のちに63カ国が批准したパリ不戦条約は、武力によらず、話し合いで問題解決を図ることを決めた。日本も参加、批准している。

歴史は一筋縄では進まず、今日のありさまだが、その意義、精神は受け継がれ発展している。それらをくみ取るべき国民が、そして政府が積極的にその先進性、世界の進むべき道筋を推し進める努力をたゆまず続けるべきだ。

核兵器禁止条約が国連で採択されるなど、日本国憲法の趣旨を世界に広げて大きな成果も生まれた。一層の9条的論旨を推し進めねばならないと私は思う。世界の知的先進はその域に来ている。

私たち個人は微力であっても、日常不断に努力して力を合わせれば、できないことはない。今まで生きながらえてきたのだから。

淺海 正義氏(あさうみ まさよし)

プロフィール

 1928年(昭和3年)3月生まれ。
 菊水化学工業(株)発足と同時に入社、役員を歴任し、株式上場の足がかりを作る。
 93年退職後、95年社会福祉法人「ゆたか福祉会」の副理事長に就任。その後顧問を務める。
 愛知同友会では労務労働委員会の副委員長を務めたほか、外郭団体である愛知県中小企業研究財団の役員を歴任し、2024年度まで常務理事を務めた。
愛知同友会創立会員(名誉会員)

戦後80年の節目を迎えて
社会福祉法人亀岡福祉会 常務理事 井内 祐治(京都)

6月23日沖縄慰霊の日、広島・長崎の原爆の日、そして8月15日終戦記念日と、戦後80年を迎えた今年は戦争と平和について見つめ直す節目でもあります。

世界各地では戦後80年を経過した今も戦火が絶えず、ロシアのウクライナ侵攻、パレスチナ・ガザの戦闘などで、多くの子どもたちが犠牲となった報道は、本当に心が痛みます。どの戦争もその国の子どもたち、高齢者、そして障害のある人たちなど、立場の弱い人たちが真っ先に日常を奪われ、戦争の被害者となります。

また世界では多極化が進み、政治的な立場の違いや宗教、領土や資源を巡る問題で対立し、戦争に対して立ち止まって共に話し合おうという国際的な呼びかけが、あまり力を持たなくなっているように感じます。戦火が終息に向かうどころか混迷を深め、子どもたちや障害のある人たちなど弱い立場の人たちが最も戦争の犠牲となる厳然たる事実があり、核兵器の使用が現実味を持って語られている現状が憂慮されています。

その背景には貧困と格差の広がりから、「自分の国さえよければ」また「自分さえよければ」という風潮が広がっていると感じます。攻撃的に社会の対立をあおり、市民の中に差別と分断を生み出しています。その風潮は国と国との間だけではなく、私たちの身近なところでも、SNSを通じて名前も顔も出さず一方的な憎悪や言葉の暴力をぶつけることが散見されます。「自分と違うから排除する」ではなく、「自分と違うから共に考えよう、話し合おう」と、私たち1人1人が身近なところからその思いを広げていく、「利他の心」が互いに大切であると思います。

他方では、昨年ノーベル平和賞を受賞された日本被団協、旧優生保護法裁判、生活保護裁判などの当事者の声を通じて、「いのちと人権、平和を守ろう」とするうねりが、今日確かに起こっています。その中でも平和は基本的人権の土台であり、戦争は「いのちと人権」を脅かす最も大きな人権侵害です。

戦火やまない戦後80年を迎えた8月、皆さんとともに「いのち、人権、平和」を改めて考え合う契機となればと思います。

平和な日々に感謝
(株)エニー 代表取締役 佐々木 雅一(神奈川)

私が小学生だった昭和30年代には縁日の神社やお寺、人が集まる催事場には全身真っ白な布に包まれた傷痍軍人らしき人が必ずいました。こういう言い方は失礼ですが、物乞いで立っているのです。周りの雰囲気から違和感があり、私の母からは近づいてはいけないと注意されました。

第2次世界大戦の傷跡が色濃く残っていましたが、40年代に入るとほとんどその姿を見なくなりました。一見戦争は終わり、人の記憶からは忘れ去られたような錯覚が漂うようになりましたが、私の最も身近な存在である父親からは、1997年に亡くなるまで消えませんでした。父親は、食事時や何かの加減で顎がガクガクなるのです。原因は軍隊でビンタを受けた後遺症とのことでした。元々寡黙だったこともありますが、父から戦争体験をほとんど聞いたことがありません。

1つ意外な話は、父が1979年に大阪から横浜に転勤になり、横須賀港に遊びに行ったときのことです。そこには間近なところに自衛艦や米軍の軍艦、潜水艦が多数係留されていました。父親が重厚な双眼鏡を持っているのを思い出し、軍艦を見るのに貸してくれるように頼みました。その時初めて戦中の身近な体験談として、「昔はそんなことしたら憲兵に捕まったんだよな」と感慨深く口から出ました。戦争が終わり何十年も経つのに、戦争の暗い記憶はいつまでたっても消えないのだなと思いました。

最近は世界各地で子どもや病院を標的にする信じられない紛争が起きています。私は少なくとも戦争を知らないで天寿を全うしそうです。父の世代の多くの犠牲の下に平和な期間を過ごさせていただくことを日々感謝しています。

恒久平和のために 100年後の世界連邦をめざそう
(株)水上 会長 水上 宏(東京)

安全保障問題に関心は?とのアンケートに、私はいつも関心はありませんと答える。

YESとすると、「じゃあ、軍備は何%?」「尖閣はどう守る?」と軍事にしか論は進まないからだ。安全保障というなら「戦争しない世界をどうつくるか?」「核兵器を廃棄するには?」「恒久平和を実現する」などこそ日本と世界の安全保障なのに。

これまでの人類の戦争とは違い、全面核戦争で人類が滅亡する恐れがある昨今、ドローンやサイバー兵器などがさらに発展し、危機がますます深まっている。然るに、現在世界の風潮は軍事バランスによる一時的平和でしかない。それでは見せかけの平和であって、根本的解決にはならない。恒久平和を実現してこそ真の平和だ。

軍事外交や、核抑止論を続ける限り、いつかは核戦争になる。永遠に核バランスが続くはずはない。核保有国が増えるほど危険は増す。そして、戦争の1番の原因は国家の利害国益だから、国家をなくし世界連邦を創るしかない。

為政者は国を守るためと愛国心を扇動して戦争を起こし続けている。愛国心と国家が戦争の一大原因である。愛国者と自認する方は愛国心が国を滅ぼすと分かっていないのか? 米国のポスターで「こんな小さな島を巡って戦争をするのか?」という尖閣の写真があった。愛国心が国を危うくしている例だ。この島のために戦争するなら、くれてやった方がはるかにましだ。

人間の心を持たないAIが戦争を起こし、人類を滅ぼすかもしれない時代だ。国内で祈るだけ、叫ぶだけでは平和を実現できない。Jアラートは軍事費のための宣伝に過ぎない。

日本ではミサイルの戦争はあっても、国土に戦車を上陸させるような愚かな戦争はあり得ない。防衛省があるなら、その10分の1の予算で「平和省」をつくり、核保有国に働きかけ、友好親善の交流を行い、空文句でよいから100年後の世界連邦を呼びかけた方がずっと平和に貢献する。こんな自明の理を近年日本でも世界でもうたわないのは、私は不思議でならない。

語り継ごう、平和への思い
クリエイティブ工房シエル 京才 さとみ(広島)

「話したくない」 祖母がそう言った声が、今も私の心に刺さったままです。

当時の私は小学3年生、平和新聞をつくるという課題で、祖母に戦争の体験を尋ねたときのことでした。おばあちゃんなら話してくれると思いこんでいました。その思いが、どこか一方的で、自分本位だったことに気づいたのは、ずっと後のことです。父からは、原爆が落ちた翌日、祖母は知人を探しに乳飲み子だった父を背負って市内に行ったと聞いていました。そして、全てを失った広島で、食堂や不動産業を1から立ち上げ、自社ビルまで建てた祖母は、私にとって“強い人”。だからきっといろいろを語ってくれると思ったのです。

でも、返ってきたのは「話したくない」という強い拒絶。その、祖母の静かで重い言葉に、幼い私は恐怖を感じ、それ以上は聞けませんでした。

一方、夫の祖父は、自らの被爆体験を「地獄じゃった」と、赤裸々に語り継いできたそうです。

語ることができた人と、語れなかった人。その違いが何なのか、今も答えは出ません。

大学で福岡に行った夏、8月6日に黙祷していた私に、友人が「何しよるん?」と声をかけました。「原爆の日だから」と答えると、「そっか、広島だから黙祷するんじゃね」と。あの瞬間、胸の奥がズンと重くなったのを覚えています。平和や平穏は、“自分ごと”でなければ、感じることが難しいのかもしれません。

「平和があってこその経営」 よく聞く言葉です。でも、戦争がないことだけが平和でしょうか?

自分も、人も、全ての命あるものを大切に思う心。祖母が語らなかったのも、その心からだったのかもしれません。

私はいま、心の中に争いはないかと問いています。誰かを自分の無意識の正義の型で裁いていないだろうか。目の前の人をありのまま、ジャッジせずに見ることができているだろうか。

そんな日々の小さな意識を持つことが、平和の始まりになる。戦後はない、今日が平和への一歩。私たちは常に、そこに立っていることを忘れずにいたいと思います。

「中小企業家しんぶん」 2025年 8月 15日号より